伝説の真剣師小池重明氏の貧困生活と生き急ぎ駆け抜けた人生から我々が学べる事

壮絶な極貧家庭で生まれ育った生粋のギャンブラー小池重明氏

かつて真剣師という稼業がありました。プロの賭け将棋です。小池重明氏は将棋倶楽部の手伝い、喫茶店での厨房、葬儀屋、土方、トラック運転手、団鬼六氏の運転手、焼肉屋の店員など様々な職業を渡り歩きましたが死ぬまで賭け将棋で金を得ていました。

しかし稼いだお金は全て女性とお酒と将棋以外のパチンコ、競馬、チンチロリンなどのギャンブルに綺麗サッパリ消えてしまうのでした。

宵越しの銭は持たないどころか方方から借金をして踏み倒す生涯でした。金があれば必ず飲み屋に行く。そしてそこで働いている女に入れあげるの繰り返し人生。

小池重明氏は1947年(昭和22年)12月24日名古屋市中村区牧野町に生まれます。クリスマスイブです。キリスト教に限らず宗教とは程遠い人生を歩んだ方だと思います。

中村区は名古屋駅西口周辺で、かつては笹島と呼ばれドヤ街が形成されていた場所です。現在ではドヤ街はもうありませんが、激安のホテルや韓国系の店、風俗店が駅西口には雑多に並んでいます。

小池氏が住んでいたのはベニアで仕切られたような薄い壁の木造住宅の六畳間でした。2階建て一軒家を5世帯で仕切って生活していたようです。貧困アパートです。

物心ついた時には本当の父はもうそのボロアパートにはおらず、出入りしていた母親の男を実の父親だと思っているのですが、なんとこの父親の稼業は物乞い。傷痍軍人の格好をして周囲の同情を買いお金を恵んでもらっていたようです。

物乞いは軽犯罪にも抵触し欧米と比べてやっている人が日本では少ないですが、ちゃんとやればアルミ缶を集めるよりもずっと楽にもっと多く稼げるようです。

仮の父親が物乞いでお金を稼ぐと近所の貧乏ろくでなし人間を集めて花札の賭場を開帳しました。小学四年生の小池少年は博打が開かれるという告知を近所に触れ回り時にはオイチョカブの親まで務めたと言います。小4からギャンブラーであったわけです。

そして母親は夜の商売で昼間はボロアパートに客を連れ込む娼婦でした。この劣悪極まりない環境で将棋に出会い、素行不良でプロにはなれませんでしたがアマ名人になり真剣師としては「新宿の殺し屋」との異名がついたのでした。

団鬼六氏の「真剣師小池重明」は将棋を知らない方でもその破天荒な生き方に驚かされながら一気に読めてしまう名作です。

人生自体がギャンブルだった小池重明氏44年の生涯

貧乏な人の特徴は何に使ったか分からないのにお金がなくなってしまうこと。自炊習慣がなくよくコンビニを利用するような生活をしていると同じものでも全て高値で購入することになるのでお金はあっという間になくなってしまいます。

そのへんのことはこちらの記事で書きました。→金儲けの極意は貧者から金を搾取すること

しかし小池氏はそんなちんけな貧乏人ではなく、有り金を全て飲む打つ買うの3セットに全力でぶっこんでいた人なのです。

擦り切れてボロボロの格好をしていてもちょっとお金があれば外に飲みにくし、賭け将棋でまとまった金が入ると女も買いますし、パチンコ競馬チンチロリンとなんでもギャンブルをするので彼のお金の使い道はしっかり追跡できるものです。

飲みに行っては夜の既婚女性に惚れ込んでしまい何度か駆け落ちしますが、その時だけ真人間になろうと一瞬思い、付き合っている期間だけ真面目に仕事をします。

その際世話になっていた人の金庫やレジからお金を拝借して(借用書を書いたりする)逃亡するという後先のことを全く考えずに女と逃げるということを次々とやらかします。

2日で90万もの大金を中京競馬ですってしまう

最低限の生活費、酒代、そして女性にかかるお金がなくなると友人知人からお金を借りまくり、働いていたところからも失敬し、雲隠れするという生活に終始していた彼の人生ですが、決して借りたかねを返さなくても良いとは思っていませんでした。

いつか返せば良いという風にいつも考えていたのでした。真剣師として纏まった金が入ればと。しかし小池氏自身自分に一体いくら借金があったかも分からなかったろうと思います。

真剣師としての勝負があれば、その情報を聞きつけてガラの悪い借金取りが列をなして会場入りするということもありました。

そのうち小池重明氏が全国で寸借詐欺をしているという記事が週刊誌に載ります。そんな輩は将棋界から追放すべきだという論調。いたたまれなくなった彼は地元名古屋に当ても金もなく戻ります。

有り金はこれで最後と方方から借りまくって集めた10万円でした。その頃はもう母親はなくなっており、育ての父とは血も繋がっていないので実家にも帰れません。

しかし住み慣れたドヤ街で一泊1000円の宿にとまり一日1000円の食事で過ごせば、50日ほど延命できます。その間に仕事も見つけられたことでしょう。

しかしいつものようにドヤ街にあるホルモン屋や大衆食堂をはしごして飲んだくれてしまいます。そこで翌日岐阜県の笠間競馬場で初日のレースがあることを隣の客に教えてもらいます。

こういうときの彼の行動力と迅速さは目を見張ります。さっそく次の日、博才の全く無い彼に突然のヒラメキが降り立ち90万という金を競馬で得ます。

浮足立って名古屋に戻り、木賃宿からビジネスホテルにアップグレード。大衆酒場ではなくクラブに行ってホステスと高い酒を飲み、その足でソープランドと豪遊します。

そしてこの運気は天まで昇るとばかりに次は中京競馬場への勝負と勢いづきます。しかし一日目で有り金を半分にし、二日目で名古屋への電車賃しか残りませんでした。その日の宿代すらありません。

そこから2年間の土方生活が始まるのでした。

しかしそこでも飯、酒、パチンコで毎日オケラな生活で、ただただ命をつなぐだけ生きていたのでした。そこからも逃げ出し、酒と重労働で体を壊し、最後の将棋の勝負で勝ち伝説を残し病院で44歳の若さで亡くなりました。いろんなチューブを自分で引きちぎって死んでいたというので自殺ではなかったかとも言われています。

将棋の伝説は残したものの、他のことはからっきしダメだった男の物語です。自分の人生と照らし合わせて、学べる事、そして真似しては決してダメなことが多くあり大変勉強になりました。