アフガニスタンの貧困を知るためにアフガンの歴史をさらっと復習

帝政ロシアVS大英帝国のアフガニスタン強奪対立

アフガニスタンの貧困を語る前にこの国がいかにして今に至ったかを復習する必用がある。

アフガニスタンの悲惨な状態は、帝政ロシアと大英帝国というヨーロッパの二つの帝国主義のぶつかり合いに端を発する。

ロマノフ朝は、エカテリーナ大帝の時代から、西アジアのコーカサス地方から中央アジアを経て太平洋に至るまで、支配地域を拡大しようとした。 ロシア軍はイスラム教の中央アジアのヒヴァ・ハン国、サマルカンドなどを次々と制圧し、その地域の原住民を大量に虐殺し、アフガニスタンの領土をどんどん侵奪していった。

東インド会社の暗躍


東インドの紋章

当時、イギリスの植民地であったインドは、ロンドンの植民地庁ではなく、民間の企業であるイギリス東インド会社が統治していた。

東インド会社はインドと貿易するために1600年、エリザベス1世の勅許により法人化された。

インド政府のトップは総督で、その本部はコルカタ(イギリス人はカルカッタと呼ぶ)にあった。イギリスは東インド会社を通じて直接インドを支配し、現地の権力者との同盟を通じて間接的にもインドを支配した。

東インド会社はインドに巨大な軍隊を持ち、正規のイギリス軍にはない独自の将校や支援システムを有していた。

1838年、イギリスのインド総督オークランドは、アフガニスタンの首長ドースト・ムハンマド・ハーンがロシアの使節団を迎えたことを警戒し、アフガニスタンに侵攻してドースト・ムハンマドを追放し、カブールにイギリスの傀儡として、かつて支配者だったシャー・シュジャを復帰させようと決意する。

そしてイギリス軍とインド軍からなる大軍がアフガニスタンに侵攻し、カブールを占領してシュジャを王位に就かせた。

しかし、すぐにドースト・ムハンマドの支持者が反乱を起こし、1842年にイギリス軍を撃退して追い出した。ドースト・ムハンマドはロシアの傀儡になるのではなく、英露の敵対関係を利用して、イギリスとの友好関係を回復し、ロシアとの友好関係を維持することにすぐに取り掛かった。

約50年ほど安定した時期もあったアフガニスタン

しばらくの間、このようなバランスゲームがカブールの政策の特徴であった。その後、1878年から1880年までと1919年の春から夏にかけての2回の英米戦争があり、アフガニスタンは1926年に王国として独立を宣言した。

しかし、ロシアで10月革命が起きると、突然、英領インドはツァーリ政権からボルシェビキ政権に脅かされることになった。 アフガニスタンは、イギリス帝国主義とソビエト連邦の間の国際的な対立の中で、依然として不安定な存在であった。

この頃からイギリスはソ連とアフガニスタンの結びつきを弱めるためにアフガンの左派指導者と部族指導者を同盟させ時には金銭サポートもするようなことを始めた。

1933年から1973年まで、アフガニスタンはモハメド・ザヒール・シャー国王によって統治されていた。

彼は近代主義者で、ソ連と、イギリスを引き継いだアメリカとの間で伝統的なバランス感覚を持って行動していた。しかし、1973年7月、左翼の陸軍士官とアフガニスタンの共産主義者の支援を受けた従兄弟のダウド王子が起こしたクーデターにより、王は倒され国外に追放された。

まもなくダウド王子は共産主義者の味方に反旗を翻し、その結果、彼は倒され死亡し、ヌール・モハメッド・タラキを大統領とする社会主義政権が誕生した。

タラキ政権は、現在のタリバン政権と全く反対で、労働者階級、貧困層、特に女性に大きな利益をもたらす急進的な改革を行った。

しかし、保守的な地方では、地主や宗教的保守派の激しい反発を受け、流血の衝突が起こった。アフガニスタンの共産主義運動も分裂し、やがて内戦的な流血とソ連の直接介入を招いた。

ソ連アメリカ撤退後にタリバンが勢力拡大

米国はアフガニスタンで、イスラム右翼でソ連介入抵抗勢力であるムジャヒディーン(ジハードを遂行する者の意)との関係を深め、パキスタン経由で武器を供与する等の軍事的な支援を行うようになり経済破壊と内戦拡大に影響を与えた。

ソ連と同盟関係にあった最後のアフガニスタン大統領ナジブラは、アフガニスタンから軍を撤退させないようソ連政府を説得しようとしたが、失敗した。

1989年に最後のソ連軍が撤退しソ連崩壊にも繋がるわけだが、ナジブラは1992年まで政権にしがみつくことができた。

ソ連もアメリカもいなくなったアフガニスタンがインドに取られるのを恐れたパキスタンはタリバンを育成することによってタリバンゲリラが勢力拡大し、1996年にカブールの政府を乗っ取り、ナジブラー元大統領を処刑した。

タリバンは、アフガニスタンの多様な住民に対して、保守的な「デオバンディ派」のイスラム法の解釈を厳格に適用し、特に女性の権利や反宗教的な人々の権利を損なわせるようになった。

しかし、2001年9月11日の米国同時多発テロ以降、オサマ・ビンラディン率いるアルカイダ組織の制圧を表向きの目的とした米国と同盟国(イギリス・ドイツ・フランス・カナダ)の大規模な軍事介入により、タリバンは政権から追放されることになったのである。

タリバンの崩壊によって誕生したブルハニディン・ラバニ、ハミド・カルザイ、アシュラフ・ガーニの3代の大統領も、安定した支持基盤を確立することができなかった。

アメリカの世論もこれ以上アフガニスタンに多大な金を投じて米軍を駐留させることを許さなくなった。

アフガン政府の腐敗と失政も相まって、アフガニスタン国民は、帝国主義の介入がもたらした政権に対して抱いていた信頼感を失ってしまった。これが、ガニが政権から追われ、2021年の夏にタリバンが戻ってきた理由である。

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