高齢者の貧困とゴミ屋敷セルフネグレクトの関係性

2022年1月25日

一億総下流老人予備軍化でセルフネグレクトも急増する可能性

下流老人という言葉が社会福祉士の藤田孝典氏によって世に広まってからもう7年が過ぎようとしています。朝日新書から出た「下流老人一億総老後崩壊の衝撃」によりますと、下流老人とは生活保護レベルの環境下にいる老人世帯のことです。

この本は今すでに下流老人になってしまっている方は読むはずがありませんので、現役世代や若者が転ばぬ先の杖的に知識として蓄えておくべき内容なので読んだ価値がありました。

2007年に生まれた子供(2022年現在15歳)の半数が107歳より長生きする!と厚生労働省のホームページに記載されていました。海外の研究ということでそれがどこかも引用はなしでしたが。

これがもし事実であれば空恐ろしいことです。80歳で死ぬのと110歳で死ぬのを比べると30年の差があり、65歳でリタイアしたあとに80まで生きるのであれば15年、110までなら45年と気が遠くなるほど生きないといけません。

最低以下で設定した年間100万円で生きる(月83000円)としても単純計算で45年で4500万円必要となります。

藤田氏の本の帯には年収400万でも将来生活保護レベルの暮らしとありますが、110歳まで生きるとなれば年収600万でも生活保護になりえますね。

ゴミ屋敷に住む人々は貧困老人が多い

↑アメリカのゴミ屋敷。英語ではhoarding houseと言います。
ロサンゼルスの壮絶な貧困はこちら

セルフネグレクトとは劣悪な生活環境にいながら、それらを自分で改善しようとしないばかりか公的福祉サービスですら拒む態度の状態です。

よってゴミ屋敷に住んでいる人々だけがセルフネグレクトと呼ばれているわけではありません。

このグラフは東邦大学看護学部教授の岸恵美子氏の「ルポ・ゴミ屋敷に棲む人々」からのものです。

グラフから分かるようにセルフネグレクトに陥った例の中のほとんどが高齢者であることと年金のみに収入を頼り別居家族からの支援がない孤立した状態であることがわかります。

体力の衰えで片付ける気力を失ったり、認知症が進み片付けどころではない状態に陥ることがゴミ屋敷化の一因であることが伺えます。

夫をなくして生き生きとする女性は多いですが、男性は妻を亡くすと坂道を転がり落ちるように人生が暗黒化するかたもおられます。最初はお酒に逃げてそのうち全てがどうでもよくなるセルフネグレクトはこのパターンです。

生きる気力をなくすと風呂はおろかトイレにもいけなくなります。ペットボトルやビニール袋に糞尿をつめる期間もすぎると時に垂れ流しその上で寝ることにより体がただれたりもします。

その他様々なセルフネグレクトのパターンが実際の例を交えて解説してあるのがこの本です。思わず読見続けるのを戸惑う地獄絵図の連続です。

社会的孤立による孤立死もこれからの高齢者の死に方ナンバーワンになる

長く生きれば生きるほど伴侶をなくしたり、はじめから独身だったり、働く場所がなかったりと経済的にも困窮した上で社会から孤立するといったことが当たり前に起きる世の中になってしまいます。

高齢者にとっては様々な福祉サービスを受けたいと思っても手続きや申請が煩雑で一人では無理という人も大勢いらっしゃいます。

そして人様に迷惑はできることならかけたくないという日本人特有の気質も影響して、人や行政サービスに頼りたくないという人もいます。

今若い人でも途中で死なない限り必ず老人になる日が訪れます。そしてこれからはその老人である期間が今よりずっと長くなります。国が老後30年で2000万円不足すると言ったいわゆる老後2000万円問題も、それを聞いて恐怖を感じた貯金のない世帯も大勢いましたが、100年生きるのであれば2000万円でも全然足りないと個人的には思います。

しかし年金も先細りし、ほぼ破綻している状況では一部の富裕層を抜かしてこの老後にお金がない状態はほとんどの人に当てはまるようになります。

高齢者になり、頼る者もおらずお金もなく認知症とセルフネグレクト状態に陥り死を待つことが当たり前の世の中になるのでしょうか。

国が財政難!財政難!と叫び続け福祉をどんどん削っていくのであれば、せめて今より周りと助け合える社会を取り戻す努力が我々個人に必要です。

落語にでてくるような江戸時代の長屋暮らしの方が現在より少なくとも心は豊かだったのではないでしょうか。あんな家に住みたい、こんな車に乗りたい、あんな服が欲しい、こんな時計が欲しいなど物質的欲望は際限がありません。

しかしどんなまずいものでも腹いっぱい食したあとでA5ランクの最高級ステーキ300gを食べられるでしょうか?ちょっと例えが下手ですが、心を満たすのは物欲を満たすよりも簡単だと言いたいのです。

物に依存するよりも人や人の優しさに依存する社会のほうが健全で一人ひとりが幸せになれる確率が高いと思うのです。

最終的には自分の命を自分でコントロールできる社会であれば良いと個人的に思う

お金がそんなになくても人々が幸せになれる社会が実現すれば良いのですが、そうならない可能性も大いにあります。

人生の後半に行き詰まってにっちもさっちも行かない状態になってしまったら、個人の自由選択で楽に命をたてるというのもあって良いような気がします。

悟りを開きたいわけでもないのに即身仏になるような生活をして最後に餓死したいとは思いません。そのことによって多くの人が救えるとしたらチャレンジする意味もありますが、そんなことには絶対なりませんので。